甘い約束








ドイツのウィーンに留学して4年。

2人別々のキャンパスで過ごす時間もあとわずかだ。

後二ヶ月もしたら日本に帰ることになっているこの小さなアパルトメントでの生活。

2人で初めて一緒に暮らしたこの場所にはたくさんの想い出が詰まっている。




今日は2月14日。バレンタインデイだ。


日本では女性が好きな男性にチョコをプレゼントする日になっているが

諸外国では男性が好きな女性にカードを贈ったり花を贈ったりする習慣がある。

こちらに来てからは月森も花の好きな香穂子のためにイメージにあった

可愛らしい花束や香穂子の喜びそうなものを毎年プレゼントしている。

そのおかえしに香穂子も手作りのお菓子などを作って待っているのだけれど・・・。


「今日は大学を休もうと思う」

「え?そうなの?どうして?」

「講義もあまりないし・・・。たまにはいいだろうと思うんだ」


月森がそんなことを言うのは珍しい。大学が違うので香穂子の休日に合わせたり

逆に香穂子の方が月森の休日に合わせて授業をやりくりすることもあるけれど。

今日は香穂子は大学がある。月森が1人で過ごすために休むなんて・・・。

何があるんだろう。


そういえば今日はバレンタインデイ。

何かあるのかな・・・。

少し心配になる。


とにかく月森は大学でもとてつもなくモテるのだ。

そしてこちらの女性は日本の女性より積極的な女性も多い。

その上キャンパスが違うからさすがに時々不安になる。

まっすぐで真摯で一途に自分だけを見つめ続けてくれる月森だけれど。


少し不安そうに見つめる香穂子の瞳に気づいた月森がふっと優しく微笑んで

その頬をやんわりと大きな掌で包み込むとその額に強く唇を押し当てた。


「心配しなくていい・・・。少し・・・用があるんだ。だから・・・。君が帰るのを待ってる」

「うん。わかった。それじゃ、いってくるね」


ようやく笑顔を見せてカバンとバイオリンを手にした

香穂子の手を取り引き寄せて軽く口づける。

柔らかな体を気持ち良さそうに抱きしめながら

月森はかがみこむようにその瞳を覗き込み耳元で甘く囁く。


「香穂子こそ、俺に心配させないでくれ・・・」

「大丈夫だよ。心配しないで。じゃ、いってきます」

「ああ。気をつけて・・・」


月森は頬を真っ赤に染めながらも嬉しそうな香穂子に思わず笑顔になると

玄関を出てアパルトメントの階段を降りきったところまで送っていく。

本当は月森の方こそ心配でたまらないのだ。


違うキャンパス。

やまり少しでも離れていれば心配だ。

そして今日はバレンタインだから・・・。

きっと香穂子に何か渡そうとする者もいるかもしれない。

事実月森も大学に行けば女性の方からいろいろと渡されそうになるからだ。

着いて行きたい気持ちをぐっと抑えつつ・・・。

今日の目的を果たそう。


そう心に言い聞かせる。


喜んでくれるだろうか・・・。

いつも限りない幸せと暖かさをくれる香穂子を喜ばせたい。

そんな想いが溢れ出してくる。


幸せにしたい。

そして幸せだと感じてほしい。

そんな風に強く願いながら時々手を振り小さくなっていく香穂子の後姿を見送った。


香穂子は手を上げて自分が見えなくなるまで見送る月森の姿が見えなくなると

急に淋しくなってきた。いつも途中まで一緒に並んで歩くこの道も今日は1人。

そして今日はバレンタインデイ。なんの用なんだろう・・・。少し気になる。


日本にいた時は考えられないくらい月森のことが心配だ。

いつも自分だけをまっすぐ見ていてくれる真摯な瞳。

この4年間でそれが揺るぎないものなのだと身にしみてわかったはずなのに。


そしてさきほどまで月森の熱い腕の中で・・・。

熱いまなざしを向けられながら愛された記憶。

そして抱きしめられた体に残る暖かなぬくもり。

ずっと見送ってくれていた月森の優しく暖かなまなざしを思い出して

香穂子は月森の愛するひだまりのような笑顔になった。

そして今日は早めに帰ろうとキャンパスへ向かう足を早めていった。


月森は香穂子が大学に行ってしまった後急いでいつも2人で買い出しに行く

近くのスーパーに買い物に出かけて行った。

メモ書きを見ながらひとつひとつ必要なものをカゴに入れていく。

果たして・・・うまくできるのだろうか。

少し不安もあったけれど・・・。

集中してやれば。

なんとかなるだろう。

そう心に言い聞かせて揃った材料と詳細に書かれたメモを手にレジへと向かった。


少し早めに帰ろうと思いながら少し遅くなってしまった香穂子は

急いで月森の待つアパルトメントに向かって走っていた。

月森が一緒にいると「転ぶから危ない」といつもたしなめられるけれど・・・。

今日はそんなこと言っていられない。


早く会いたい・・・。

今、どうしているんだろう。

早く・・・早く・・・。


ベルを鳴らすとすぐにガチャリとドアが開けられた。

そしてずっと会いたかったブルーの髪・・・。

琥珀色の瞳。

そして・・・。

あれ?


爽やかな甘い香り・・・と思ったらなんだかすごく甘い匂いがする。

甘いものあまり好きでない蓮くんなのになぜ?


香穂子が不思議そうな顔をしているのを見て月森はチョコのように甘い微笑みを向ける。

いや、チョコよりもずっと甘い甘い微笑みだ。

向けられるだけで溶けてしまいそうにな笑顔だ。


「おかえり・・・」

「ただいま、蓮くん」


いつもここで抱きすくめられて朝より深めに口づけられる。

だけど今日はおでこに軽く唇が触れただけ・・・。

どうしてなんだろう?香穂子は少し淋しい想いにとらわれる。

やっぱり何かあるのかな?


それでもチラリと自分の手元に視線を走らせる月森を見て香穂子の顔もほころぶ。

たぶん・・・。何か受け取ってきていないかと心配しているのだ。


「なんか・・・甘い匂いする・・・」

「そうなのか?」


香穂子の言葉に月森がキッチンが見えないように立ちはだかる。


「どうしたの?」

「いや・・・。なんでもないんだ。香穂子・・・」

「なあに?」

「デートしようか?」


すでに日が暮れ始めてもうすぐ夜になる。

これから・・・?

夜に向けての2人きりのデートはロマンチックで・・・。

いつになってもドキドキする。


「いいよ・・・」

「それじゃ、行こう」


寒い夜道を歩くためにお揃いの黒のコートを着込んで

2人ひとつのマフラーにくるまる。

以前は月森がグレーのマフラー、香穂子が赤のチェックのマフラーを

それぞれ巻いていたけれど・・・。

イギリスに来て2人で住むようになってからは月森が長めのマフラーを

ふわりと一緒に巻いてくれる。

月森の方からまさかこんなことしてくれるなんて・・・。

初めて巻いてもらった時はドキドキがとまらなかった。

今でも・・・。鼓動は早まるけれど・・・。

間近にある端正な横顔・・・。

黒のコート・・・。

本当に似合ってる。

そんなコート姿の月森に肩を抱かれて歩きながら

この上ない幸せを感じる。

ずっと優しく横にいてくれる大切な大切な人・・・。



「どうした?」


見つめていたらいつものようにすぐに気づいて振り返る。

間近で見つめる甘く優しい琥珀色の瞳が近すぎて・・・。

思わず涙が出そうになる。


「ううん。幸せだなって思って・・・」

「そうなのか?それなら・・・俺の方がいつでも君に幸せをもらってる」


いつもお互いのポケットの中にある繋いだ掌にきゅっと力を込められて

応えるように指をもっと絡ませていく。


近くにあるお気に入りのレストランで軽く夕食を取ると

すっかり星の瞬いている綺麗な夜空の下をゆっくりと散歩する。

もうすぐ日本に帰るから・・・。

こうして2人この道を散歩するのもあとわずか。

そう思うと少し淋しく感じる。


そして夜景の見える広い公園。

大きな木の下でたくさんのカップルたちが思い思いに抱き合ったり

語り合ったりしながら幸せそうに過ごしている。

この木の下で・・・

何度も語り合って・・・見つめあって・・・そして抱き合って・・・。

何度もキスを交し合った。


思い出の場所。


「もう・・・ここに来るのもあと少しなんだね・・・。なんだか淋しいな・・・」

「また・・・来ればいい。ここは2人の想い出の場所でもあるし・・・。

ドイツはいずれ何度も訪れることになるだろうから。それに・・・」

「それに?」


見上げる香穂子の大きな瞳を見つめたままで月森は繋がれた掌の

入っていない方のポケットの中から小さな箱を取り出した。




「今日はバレンタインだろう?俺から君に・・・受け取ってくれないか?」

「え・・・?これを私に・・・?蓮くんが・・・」


うなずく月森にきらきらと瞳を輝かせた香穂子が箱を開けてみれば・・・

かわいらしい香穂子の好みそうな小さなカゴに入れられた美しいトリュフ型のチョコレート。

とても均一にできているそのチョコレートは。

この甘い匂いが部屋に漂っていなかったならわからないほどによくできている。


「もしかして・・・これ・・・」

「初めて・・・作ったものだからあまりうまくできていないかもしれない」

「れ・・・蓮くんが作ったの?!」

「そうだ・・・」

「信じられない・・・」

「本当なんだ・・・君に喜んでほしくて・・・」

「すっごく嬉しい!ありがとう!大好き・・・蓮くん」


そう言って飛び上がるように抱きついてくる香穂子の柔らかく暖かな体をぎゅっと抱きしめる。

そしてチョコよりも甘い香りのする髪に唇を押し当てると月森はその長い睫毛を閉じて幸せにひたる。


そうだ・・・。

今度は香穂子・・・君の番だ。

ゆっくりと体を離していくと月森はいくつものチョコが入ったカゴを指ししめす。


「香穂子・・・。まずはどれから?選んでくれ・・・

そして食べさせてくれないか?俺から君にあげたいんだ・・・」


たくさんのチョコが入ってる。

甘い物好きな香穂子のためにたくさん作ってくれたんだな。

そんな気持ちがわかるから・・・。

自分のために一生懸命作ってくれた月森のことを思い、その様子を思い浮かべると・・・。

香穂子は幸せすぎて涙があふれそうになった。涙があふれてしまう前に・・・。

期待の目で見つめる月森の目の前でひとつ選んで形よく出来上がった

つやつやとおいしそうなチョコをつまみあげた。

これを月森の唇から・・・?

自分に・・・?

香穂子の頬が真っ赤に染まる。

それでもゆっくりと月森の口元に持っていくと指ごとぱくりと食べられてしまった。


「きゃっ・・・」


指に月森の唇の感触が暖かく残ってどきりと鼓動が跳ねた。

そしてぐいと引き寄せられてゆっくりと重ねられる唇・・・。


チョコの入った月森の唇は甘くて・・・。

ころんと香穂子の口の中に品よく甘いチョコが転がった。


そして・・・。


「ん・・・」



思わず吐息を漏らす香穂子の体を支えるようにしながら抱き寄せる。

溶けていくチョコの甘さとお互い絡み合う舌先の甘さに体の芯まで溶けていきそうで・・・。

ふわふわと体が宙に浮いているようなそんな感覚に月森の背中にぎゅっとしがみつく。


溶けていくチョコと深まるキス・・・。

抱き合う2人のいるその場所だけが瞬間がとまったように・・・。

甘い時間が刻まれていく。



そして・・・。

コリッ。

あれ・・・?

なんだろう・・・。


香穂子は歯に当たる固い感触に固く閉じていた瞳をうっすらと開いた。

瞳が合うと琥珀色の瞳が優しく見つめている。

ゆっくりと唇がチョコとキスの甘さの余韻を残したままで離されていった。


「蓮・・・くん・・・?」


信じられないという表情で香穂子が月森を見つめていた。

まだ甘さの残る唇にそっと手を添えるとかわいらしい舌をぺろりとのぞかせて

香穂子の唇の中からころんと指輪が転がった。


「香穂子・・・結婚しよう」

「蓮くん・・・」


真摯なまなざし・・・。


月森の声が少し・・・掠れていて・・・少し上ずっていた。

その表情も・・・熱くて・・・切なくて・・・きっと一生忘れられない・・・。


嬉しくて・・・幸せで・・・思わず涙が溢れてきた。

ぽろぽろと想いのいっぱいつまったその指輪のようにころんと

幸せな涙がその澄んだ瞳から頬を伝って転がり落ちる。


婚約した時から・・・いや、高校の時からずっとプロポーズに近いことは何度も言われてきた。

もうすぐ日本での新しい生活が始まる。こんな幸せに満ちたプロポーズは・・・月森が作ってくれた

甘い甘いチョコのように香穂子の心も体も幸せな甘さで満たしていく。


香穂子の涙に驚いて唇でそっとぬぐってくれる月森の体を抱きしめて・・・。

そしてもうひとつチョコを取ると口に入れて月森の唇に唇を押し当てていく。

月森が少し開いた唇の隙間からチョコがまたひとつころんと転がって

月森の唇の中も甘さで満たしていく。

そして2人で一緒に溶かしていく・・・。


唇が離れると香穂子が涙のにじんだチョコより甘い瞳でとろけるような笑顔を向けている。

月森の鼓動がどきんと跳ねて・・・。


「あなたのお嫁さんにして?」


少し掠れた甘い声で・・・。

香穂子からも思いがけず贈られたプロポーズの言葉に月森の瞳が大きく見開かれて・・・。


立っていられないほどの幸せを感じて香穂子の体を強く強く抱きすくめる。

香穂子が選んだひとつめのチョコに指輪が入っていたことにも運命を感じる。


「ああ。もちろん・・・俺には君しかいないのだから・・・」

「ずっと一緒にいてね・・・」

「ありがとう・・・。君が好きだよ。君を誰より愛してる」


2人のさまざまな想い出を見守ってきた大きな木の下に

優しく香穂子の体を押し付けてまだチョコの甘さの残る唇をもう一度重ねていく。


またひとつ想い出が増えた。

きっとずっと忘れられない想い出・・・。



また来るよ・・・。


きっと・・・。


いつまでも抱き合う2人に照れたのか大きな木が風に少し揺れて・・・。

祝福するようにきらきらと星も瞬く。


またこの地を訪れることができますように。

交わした甘い約束を叶えて。


Happy valentinesday・・・


2006.2.13



おまけ